長くて短かった50年-創立50周年にあたって-
『コロニーとうきょう』2001年04月
国鉄で用済みとなった客車一輌を無料で払下げてもらい、それを大宮工機部から大金(当時5万円)をかけて、国立中野療養所(現在は廃所)の近くの借地に運び、その廃車の中で結核回復者が生活しはじめたのは1950年でありました。しかし、回復者といってもほんとうに治っているかどうか疑わしい結核野郎が生活するのは困るという住民の反対で、今の中野工場の地に移転して、さらに客車2輌(計3輌)を運んで、生活と作業を始めたのはその翌年のことであります。
ここを起点として東京コロニーの事業が始まり、今年で満50年になりました。
全国的なアフターケア・コロニー運動が始まったのは1949年頃からです。ストレプトマイシンなどの抗結核薬が開発され、日本でも使われはじめた時期であります。不治と言われた結核病から人間が初めて解放されるようになり、社会に戻ることができるようになったものの、敗戦後の混乱が続いている中で、体力に自信がなく、帰る家も仕事もない人々に対する一定期間のリハビリや職業訓練などを行うアフターケア施設と、重い後遺障害を残した低肺機能者のための生活と就労の場としてのコロニーの制度を国に求めての運動が起こされたのは、むしろ当然のことでした。
国はアフターケア施設については、生活保護法の更生施設として制度化をしたものの、年に1カ所程度しか設置を認めず、コロニーについては長期間滞在するようなものは認めないとしました。しかし、退院命令を出された低肺機能者たちは、入院患者や職員の支援を受けて療養所の残飯をもらって養豚・養鶏や、資本金が少なくてすむガリ版印刷を営んで、徐々に呼吸器障害の仲間を受け入れていくという道を辿ることになったのです。
コロニー運動は、自らの生活を自らの手で切り拓きながら、呼吸器障害者の福祉制度を実現するための運動を積極的に取り組んだというところに、その特徴があります。
運動の最初の成果は、1967年に身体障害者福祉法に呼吸器機能障害と心臓機能障害を含める改正を実現したことでした。
東京コロニーは、1968年に社会福祉事業法授産施設と低額宿舎(現 社会就労センター中野)の開設をもって社会福祉法人となりましたが、運営費に公的補助が入るようになるのは、それから3年後の1971年で、身体障害者授産施設(コロニー印刷所)を開設してからでありました。発足して20年間は無補助で事業を続けてきたのであります。1967年の身障法改正までは呼吸器障害は法的には障害者ではなかったのであり、また、社会事業法授産施設は、障害者が利用しても、当時は運営費補助制度はなかったのです。
当法人が事業的な力をつけ得たのは、この20年間、全く自力で事業を続けてきたという体験と蓄積であります。呼吸器障害者に加えて、脳性まひや両手切断、精神障害、あるいはハンセン病後遺障害などを受け入れ、経営者も含めて低額ではあったが、事業によって生活できる給与を払い続けてきたという経営のノウハウであります。
最初の20年間を、試行錯誤と基礎づくりに費やしたわけですが、その最大の理由は、呼吸器障害が、法的には障害者ではなく、障害者福祉制度の外におかれていたためです。そういう下地があって、社会福祉法人の認可を受けてからは、凄まじい早さで、事業を拡充していくことになりました。
現状は、9つの法内施設(社会就労センター(7)、福祉工場(2)、公益事業1(IT事業本部)の事業を都内8カ所で行なっており、約660人(うち身体障害者258人、知的障害者71人、精神障害者27人、障害者計356人。障害をもたない人300人)が働き、売上げも最近の平均で年間約八十億円、総予算九十億円という規模になりました。
オイルショックの最中に東村山印刷所を建設し、東京都大田福祉工場(いずれも印刷業)を同時期に開設したときは、葛飾福祉工場の慢性的な赤字に加え、順調だった中野工場から東村山、大田福祉工場に技術者や管理職を転勤させ、仕事も一部廻さなければならなかったために全体が赤字経営となり、いつ倒産してもおかしくない異状事態となりましたが、あの手この手でなんとか切り抜けることができました。東京コロニーは幸運に恵まれていると思います。
経営環境はきびしくなり、変化が早くなったこの時代を、どう時代にふさわしい体質へと転換していくか。これがこれからの最大の課題です。この事業の利用者の変化は、すでに見えており、関連して新しい職種の開発が必須となるでしょう。身体障害者福祉工場の制度の空洞化や、世界的なワークショップ批判、見直し論をどう受け止めていくか。
そして、多様な利用者への適切な処遇のあり方の吟味と、スタッフの再教育などに、立ち向かわなければならないのです。
おかげさまで50年。私たちはこの思いで、50周年を、仕事を発注してくださっているお客様に感謝をこめて、周年事業として取り組むことにしています。