<時評>らい予防法への裁判によせて
『コロニーとうきょう115号』2000年01月
「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」の裁判が、熊本、岡山、東京の各地方裁判所で同時に進められています。この裁判は、ハンセン病患者・回復者約250名の原告によって一昨年7月に起こされたもので、合わせて360名の弁護団が支援する大型の裁判になっています。
ハンセン病者(以前はらい病と言った)は、長い間、国家権力によって強制隔離され、家族の戸籍からも除籍され、別の姓名を与えられるなど、非人間的な扱いを受けてきました。1953(昭和28)年のらい予防法改正でも、新憲法の人権規定や、プロミンなど治療薬の治験を無視して、強制隔離政策を継承する内容の制度は改められなかったのであります。今にして思えば、たいへん悔いを残す結果となったといえるでしょう。
東京コロニーで最初にハンセン病の回復者を身体障害者として入所受入れをしたのは、1970(昭和45)年のことでした。内部の理解と同意を得るのに約半年を要し、いくつかの条件をつけての決定でした。
私自身はハンセン病は治る病気となっていると理解していたので、一人の障害者として淡々と受入れるつもりでしたが、内部から反対の声があがり、強硬に反対する人もいたため、専門医を呼ぶなど啓発の機会を重ね、内部討論等の手続きに時間をかけました。この問題は偏見の問題であるから妥協してはならない。もし妥協すれば障害者に対する偏見を是認することになり、私たちの事業の存在そのものを問われるという思いで、懸命の説得を行いましたが、それでも2〜3の人が職場を去っていきました。
その翌年、ゼンコロの総会が熊本で開かれましたが、この会議でコロニーの各工場に、ハンセン病の回復者が働きたいと応募してきたら受入れられるか、という設問をしたところ、東京コロニーを除くすべての工場(会員)は「無理」「困難」という回答をしたのです。ここから延々と議論が始まりました。当時ゼンコロ会長だった故野村実医師や、東京コロニーの会長であり、国立中野療養所外科部長だった故中井毅医師も、らい菌そのものは感染性の弱いものであり、今は治癒する病気であることなどの見解を示して、受入れられるべきだと説得されましたが、結論は『東京だからできるのであり、地方ではまだ無理。内部を説得することが難しく、地域で問題になる』というものでした。
この会議の後、野村先生は私に「ハンセン病の問題は、療養所に居る患者さんが亡くなることでしか解決できないのですかねえ。」と、先駆的であると思っていたゼンコロメンバーの意外な保守性にショックを受けられたようで、ため息まじりにもらされたことを、今でも生々しく思い出します。
当法人にはその後も希望者があり、8名のハンセン病回復者を受入れています。 現在ハンセン病療養所には4,700人(最高時1万2千人)の患者さんが生活しています。平均年齢は73歳で、今さら社会に出ることは難しいので、療養所を生活の場として暮しています。社会に出て、ハンセン病であったことを隠して暮している人も相当数あるようですが、その人数はわかりません。
1996(平成9)年にらい予防法はようやく廃止されましたが、その際、療養所在籍者の生活を保障することなどが定められました。新しい患者は健康保険などで医療を受けることになります。
謝罪と賠償を求める裁判では、証人訊問や原告側の陳述などが行われていますが、すでに元厚生省医務局長(現・国際医療福祉大学学長)の大谷藤郎氏は、国の強制隔離政策の誤りを認める証言をされています。元全生園園長の成田医師(前・日本らい学会会長)や、元大島清松園医務局長の大泉医師など、それぞれハンセン病専門医も、同趣旨の証言をすることが予定されています。
長い強制隔離政策と療養所内警察権の行使、1996(平成9)年に改正された優生保護法(現・母体保護法)による断種手術など、人権無視の数々は、遅きに失したとはいえ国民の前に明らかにされなければなりません。偏見問題と対峙すべき障害分野の人々に、関心をもって見守ってほしいと思います。